落語「浜野矩随」の舞台を歩く

 

 立川志の輔の噺、「浜野矩随」(はまののりゆき)によると。
 

 江戸は寛政年間、浜野矩康(のりやす)という腰元彫りの名人がいた。その名人が亡くなって奥様と一人息子の矩随が残された。先代の時は浜野家の前に道具屋が列をなしたと言うが、息子の代になって誰も相手にしなくなった。それは矩随の作がヘタで作品と言われる以前の問題であった。しかし、一人、芝神明の”若狭屋甚兵衛”だけは先代に世話になったからと息子の作品をどんなものでも1分(いちぶ)で買い上げた。

 今朝も若駒を彫ってきたと言うが3本足であった。眠気が来て足1本を彫り落としてしまったという。その心魂に呆れ、若狭屋は言いたくない事ではあったが言った。「ミカン箱に13箱こんなゴミ作品ばかり溜まっている。河童狸は頭に皿を乗せているが、下は狸だ。小僧達はこれを見て笑っている。下手な作品を作るくらいなら死んだ方がイイ。これからは縁を切るから5両の金を渡す。これで以後ここの敷居を二度とまたぐんではないぞ。死に方が分からなければ表に出て左に行きな。吾妻橋から身を投げな。それが出来なければ、右に行くと芝増上寺に出る。そこの門前に枝振りの良い松がある。その松で首をくくんな。ぼんやりした顔をしてないで帰んな」。

 家に帰り伊勢詣りに行くからと嘘をついたが、母はお見通しで、若狭屋さんの一件を聞き出した。母親は「死にたければ死んでも良いが、最期に私に形見を彫って欲しい」と観音様を所望した。
 裏に出て井戸の水をあび、仕事場に入り仕事を始めた。隣では母親が神頼みの念仏を唱えていた。4日目の朝、出来た観音を母親に渡した。感心して見とれていたが、「もう一度若狭屋さんに行って30両びた一文まからないからと見せておいで。それでも、負けろと言ったら好きな所に行っても良いよ。お行き。」と息子に言い聞かせた。「その前に、お水を一杯ちょうだい。後の半分をお前もお飲み。では、行ってらっしゃい。」

 言い過ぎた事を謝る若狭屋に観音像を見せた。おっかさんに町で会ったとき「一品ぐらいは残っていないのですかと聞いたら、『全て食べ物に変わってしまった』と下を向いてしまった。ゲスな事を聞いたと思ったが、やはり残っていたんだな。素晴らしい観音だがお前には分からないだろうな。で、いくらなんだ。」、「30両びた一文まからないんです。」、「30両の前を聞き逃してしまったが。何百30両なんだ。え!ただの30両か。言い換えるなよ。おっかぁ、30両早く出せ。ところで、お前はつまらない野郎だな、オヤジの30両ばかりの金で泣いていやがる」。「それは私がこさえました」、「馬鹿野郎!一番言ってはいけない事を今言ったんだぞ。根性も曲がってしまったんだな。・・・(裏の銘を見て)どうして、これが出来たんだ」。「あの日帰って、親に話すと形見を彫ってくれと言われたので彫った。少しでもマズかったら死んでも良いと言われ、心魂込めて彫ったのがこの観音様です」。「オヤジの作品だと思って話していたが、間違っていた事は謝る。必死になって彫ればオヤジと同じように魂の入ったものが出来るんだ。道具屋仲間にも自慢できるよ。おっかさんの目利きも凄いが、どうしている? え!?水を、半分ずつ飲んで出掛けてきた? 馬鹿野郎、それは水杯ではないか。すぐ帰れ」。

 とって返した自宅は内から戸が釘打ちされていた。中にはいると線香の煙の中で、九寸五分で手首を切って倒れていた。「おっかさん、本当は売れないと思っていたんでしょう。若狭屋さんはおとっつぁんのと間違えて買ってくれました。おっかさ〜ん。おっかさぁ〜〜ん」。心が届いたものか、手当がよかったのか一命は取り留めた。
 あるんですねぇ、ある時を境に上手くなる時が。
 名人矩随が出た、との噂で浜野の家の前に道具屋の行列が出来たが、「私の作品は若狭屋さん以外納めませんから」との事で、若狭屋にお客が集中した。
 お客の中には「どんな彫り損じでも良いから」とねだる者も出て、初期の作品の3本足の馬や河童狸もミカン箱から売れていった。

 名人に二代無いと言われたが、浜野の二代は名人の称号を欲しいままにした。

 


 
1.浜野派の流れ
 浜野矩隨(はまののりゆき) 江戸後期に始まり3代続いた彫金家。
〔初代〕矩隨 元文元年〜天明7年(1736−1787) 通称忠五郎。望窓軒・蓋雲堂と号す。浜野政隨の高弟にして一家を成し神田小柳町に住した。天明7年8月29日没、享年五十二歳。
浜野派独特の細密精巧な中に、乗意風の薄肉合彫を取り入れた作風である。

〔二代〕矩隨 明和8年〜嘉永5年(1771−1852)本姓染野松次郎。壽松軒、東龍斎と号す。天明5年(1785)十四歳の時初代 (父)に従ひ初め政方のち矩施と称し、寛政6年(1794)23歳の時、師家の後継者となった。嘉永5年7月1日没、享年八十二歳。

〔三代〕矩随 通称十五郎。初め壽隨と称し、耕雲斎、生龍軒、鶴臨堂と号す。

 初代矩隨の門弟に吾妻永隨、中沢矩最、遠山直隨、水戸利隨、保隨、弘隨等出で、二代矩隨の門弟に斎藤富隨、森矩明があり、遠山直隨の門から名工岩間政直、田中高隨が著はれ、高隨の門から浜野春隨が出た。春隨は通称銀次郎。松運堂と号し、市ケ谷柳町に住した。その門に浜野春親(弘化年間の人)、春常、春利がある。

 ■浜野政随(はまのしょうずい) 金工。江戸中期に始まり、四代を数える。
 初代 元禄9年−明和6年(1696−1769)通称 太良兵衛、別号を乙柳軒・味墨・閑経・子順・遊壺亭・穐峰斎・半圭子・一瞬堂・玉渓舎・圭宝。
 江戸神田竪大工町に住み、奈良利寿に彫金術を学び、一派を開いて浜野派を立てた。
 門人に室田寛随・牧田宝随・浜野矩随・堀江興成・高橋政山らがいる。

 二代 元文5〜安永5(1740−76)初代の次男、名前・兼随、別号を開眼子・味墨・政慎・乙柳軒・,滝花堂。 江戸神田大工l町に住む。 兄政実が宝暦7年(1757)若年で没したので、二代目を継ぐ。
原典;コンサイス「日本人名事典」三省堂による

 ここで解るとおり、噺の中で初代「矩康」 (のりやす)の子、矩随が跡を継いだと言っていますが、 実録ではそれは間違いで、父親矩随(忠五郎)に師事した息子・松次郎が二代目矩随を継いでいます。

 ■志の輔の噺では、矩随の母は一命を取り留めています。元々この噺は講談話で講談では母親は絶命しています。志ん生は元の講談話の筋書き通り母親を絶命させていますし、円楽の噺で も亡くなっています。聞いていると母親が助かって一瞬ホッとしますが、亡くなった方がインパクトはあります。その為開眼して名人矩随となるのですから。

 
2.腰元彫り

 「腰元」という言葉は身のまわり、特に腰の回りというような意味で、そこから身辺の世話をする侍女を”腰元”とよんだり、刀剣の付属品を意味するようになった。腰元彫りは刀剣装飾品を彫刻すること、刀剣の付属用品を製作することを言います。鉄・真鋳・銅などを加工するため、彫金術に長けていなければならなかった。
 腰元彫りの名人達は、落語『金明竹』でお馴染みの「先度、仲買いの弥一が取次ぎました道具七品のうち、祐乗・光乗・宗乗三作の三所物。横谷宗a四分一拵え小柄付の脇差し・・・」 、後藤家はこの祐乗・光乗・宗乗を輩出し、天皇家・将軍の「三所物」を手がけ金工の保守本流であった。
 しかし、江戸泰平の世が永く続くと刀は武器としてより装飾品としての様相が強くなってきた。武士よりも力を持ち始めた町人はこの目貫などの刀の道具を緒締め・紙入れ・帯止め・煙草入れの金具や根付けに使い楽しんだ。その江戸庶民の要望に応えた筆頭が町彫りの横谷宗aであった。 また、浜野矩随もその一人です。

 ■伊藤三平氏のホームページに腰元彫りの写真があります。浜野矩随「漢楚軍談−張良・樊噲図」小柄
http://www.mane-ana.co.jp/katana/touwa0609kuzui.html

 ■靖国神社・遊就館(千代田区九段北)のご厚意とご協力で写真撮影した、二代目浜野矩随作品です。

 

 柄頭の長辺で3cm程のキャンバスに描かれた世界の、緻密さと正確さと表現の豊かさが観られます。縁(ふち。鍔の手前に付く金物)と柄頭(頭。柄の先端に付く飾り)がワンセットの絵柄になっています。三国志からのモチーフ、武将等がレリーフのように浮き彫りの絵画になっています。虫眼鏡で見ないと細部が分からない程細かく彫られています。 作品名は判りません。
写真の縁と柄頭は原寸より若干大きくなっています。枠で囲まれた写真はクリックすると拡大されます。


 上記写真の頭と縁の装着場所は左の図の位置です。
柄は二枚の板で作られ、刀身の根元、茎(なかご。中心ともいう)が入る。二枚の板の上に鮫肌を巻き、その前後に頭と縁が付いて、持つ所は組み紐や皮紐で巻かれ、真ん中に目貫の飾り物が入ります。

 

根付け;煙草入れなどの紐の先に付ける抜け留めのアクセサリー。それが根付け。動物、人間、花等々有りとあらゆる物があります。現代流に言えば、携帯電話のストラップでしょうか。 右写真。

根付け写真をクリックすると大きな写真になります。
 

3.一分(金)
 1分=4分の1両(4分=1両)。親子二人が半月ぐらい生活が出来た(志の輔)という価値があった。若狭屋は三本足の馬や河童狸でも1分で買い上げた。

■びた一文: びた【鐚】=鐚銭(ビタセン)の略。最下等の銭でこれ以下の通用銭はなかった。「その銭(鐚銭)すら負けないよ」と言う意味。
 

4.芝神明(港区芝大門1-12-7、正式名;芝大神宮)
 
道具屋若狭屋甚兵衛が店を構えていた所。
 芝大神宮は平安時代、寛弘2年(1005)創建された、関東の伊勢神宮として栄えた。毎年9月11〜21日まで行われる「だらだら祭り」として有名 。特に16日は例大祭のピークです。またこの時、生姜が売られ目の予防と、その生姜を食べる事によって風邪を防ぐ、と言われています。2005.9月11〜21日は創建1000年を迎えるので、壱千年記念大祭が盛大に行われました。第13話落語「富久」、第110話落語「江島屋騒動」でも歩いた所です。

吾妻橋;江戸の時代から大川(隅田川)に架かっていた有名な橋。両国橋、新大橋、永代橋に続いて、浅草と本所を結んで、安永3年(1774)に架けられ、大川四大橋と言われ、明治までこの状態が続いた。
 落語国では「心中の本場が向島、身投げをするのが吾妻橋、犬に食いつかれるのが谷中の天王寺、首くくりが赤坂の食い違い」と、円生は噺の中で言っていた。今は夜でも明るすぎて、飛び込みずらいのではないでしょうか。落語「唐茄子屋政談」より。

 吾妻橋は「唐茄子屋政談」、「文七元結」、「星野屋」で歩いたところです。どの噺も円生が言うように身投げの舞台になっています。

第50話「唐茄子屋政談」では、 付いてくるはずのお天道様と米の飯が、遊女にも振られて、お天道様だけになってしまった。勘当の身の若旦那では何も出来ず、ここ吾妻橋から身を投げるところを叔父さんに助けられる。
第54話「文七元結」 、博打好きの左官屋はすってんてん。娘が自分から吉原に身を売って作った金を懐に吾妻橋にさしかかると、お店(たな)者が飛び込もうとしている。助けようとするが聞き入れず、懐の金に手を伸ばし、「娘は死なない、お前は死ぬと言うから、この金をくれてやる」と叩きつけて帰ってくるが・・・。
第142話「星野屋」、吾妻橋から飛び込んでいたら、もう少しで星野屋に入れたのに。

■増上寺;(東京都港区芝公園4-7-35)
 浄土宗の七大本山の一つ。三縁山広度院増上寺(さんえんざん_こうどいん_ぞうじょうじ)が正式の呼称。開山は酉誉聖聡。江戸時代の初め源誉存応(げんよぞんのう)が徳川家康の帰依(きえ)を受け、大伽藍(がらん)が造営された。以後徳川家の菩提寺として、また関東十八檀林(だんりん)の筆頭として興隆した。さらに、江戸時代総録所として浄土宗の統制機関ともなった。戦災によって徳川家の将軍やその一族の御廟(ごびょう)は焼失した。焼失をのがれた三門(さんもん)・経蔵(きょうぞう)・御成門(おなりもん)などを含む境内(けいだい)は、昭和四十九年(1974)完成の大本堂とともに、近代的に整備された。(ホームページより)

図版;版画「芝増上寺」。ここには沢山の手頃な松があります。

神田小柳町;浜野矩随が住んでいたところ。現在の神田須田町一丁目。「千両みかん」の舞台です。

 初代の師匠・浜野政随は神田竪大工町に住んでいた。現在の千代田区内神田三丁目北部(JR神田駅西側)で、小柳町とは隣近所であった。 神田竪大工町には落語の世界の住人、亀ちゃんのパパ・大工の”熊五郎”(子別れ)。財布を落とした大工の”吉五郎”(三両一両損)。大家と喧嘩した棟梁”政五郎”(大工調べ)もこの町に住んでいました。


5.みず‐さかずき【水盃・水杯】
酒ではなく、水を互いに入れ合って飲む別れの杯。再会を予期できない時などにする。(広辞苑)

九寸五分【くすん‐ごぶ】;(長さによっていう) 短刀。刃渡り九寸五分(28.8cm)の短刀。
 仮名手本忠臣蔵出物止めの四段目、切腹の場。中央に判官。「三方引寄せ九寸五分押戴き」短刀を腹につきたて、苦しい息の下、由良之助を待ちます。死ぬ時に使うにはちょうど手頃で絵になる短刀。
 


  舞台の芝神明・増上寺・吾妻橋・靖国神社を歩く

 芝神明は第一京浜国道、当時の旧東海道に参道の入口が面しています。前回、第110話落語「江島屋騒動」でも歩いた所で 、2年ぶりの訪問に懐かしさを覚えます。この東海道に面した所に若狭屋さんは有ったのでしょう。

 参道の出口を右に曲がれば直ぐ裏が「三縁山増上寺」です。増上寺の大門(だいもん。おおもんと発音すると吉原の入口の大門を指します)は公道になって、その下を車が通り抜けています。その大門をくぐると 両側には木々が生い茂った公園があって、そこにも枝振りの良さそうな木々があります。増上寺の境内には”枝振りの良い松”なんて無いのだからと、一生懸命その枝振りを撮っていました。大門からの突き当たりに立派な山門 (三解脱門)があって、その下を抜けると、境内の奥に本堂とそのバックに東京タワーが見えます。何とナンと目の前に枝振りの良い大きな松の木があるではありませんか。これにはビックリしましたね。この松を「グラント松」と言います。
 夜になって人通りが途絶えたら決行してみようと、下見をしましたが、低い枝でも手が届きません。脚立を持ち込んでの大がかりな事になってしまいますから、諦めましょう。

 若狭屋さんの前の東海道を左に曲がり北上すると日本橋を渡り、そのまま電気街の秋葉原を抜けて上野駅前を右に曲がります。その先の隅田川に架かる橋、駒形橋のひとつ上流の橋が、吾妻橋です。前回訪れた、第142話 「星野屋」で紹介していますので、夜の吾妻橋もご覧ください。私も夜の吾妻橋を見ると飛び込みたい気が萎えるのが分かります。早く帰って、この原稿を書き上げよ〜っと。

 浜野矩随の作品を探してあちこち歩きましたが、千代田区の靖国神社に保管されているのが分かりました。靖国神社の宝物館というか史料館を「遊就館(ゆうしゅうかん)」と言い、ここに収蔵されていました。当然本物です。遊就館の全面的なご協力で、展示品ではない史料の中から、矩随の作品を気持ちよく撮影させていただきました。ありがとうございました。その写真が上記の頭や縁などです。
 私も始めて見る作品ですが、皆様はいかがですか。

 

地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。 

写真

それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

芝神明(港区芝大門1-12-7、正式名;芝大神宮)
道具屋若狭屋甚兵衛が店を構えていたところ。
この参道の何処かに店があったのでしょうか、または門前の東海道に面した所に有ったのでしょうか。
 

増上寺(東京都港区芝公園4-7-35)
落語の噺だけかと思ったら、本当にありました。枝振りも良いし・・・。
この松を「グラント松」と言います。米国第18代大統領グラント将軍は明治12年(1879)7月国賓として来日し、増上寺参拝記念として植樹した松です。
 

吾妻橋
落語界では身投げの本場吾妻橋で、下を流れるのが隅田川。正面ビル街の左奥が浅草寺です。
定番写真はここにあります。これがないとイメージが湧かないでしょ。
 

神田大工町(千代田区内神田 三丁目北部)
初代の師匠・浜野政随が住んでいたところ。正面に山手線が走っています。左に曲がれば須田町です。
正面上方に「徳力」の看板が見えます。「三方一両損」の一方の主役がここです。
 

神田小柳町千代田区神田須田町一丁目
浜野矩随親子が住んでいたところ。
須田町交差点から万世橋→秋葉原電気街を望んでいます。過去には江戸一の青果市場がありましたが、今はご覧のようにビル街で、その先の電気街がオタクの街として栄えています。 写真の後方が神田です。

                                                      2007年10月記

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